ぼちぼちいこか

f0055491_114438.jpg「知ってはりますか?くいだおれ、潰れるねんて」——。約2か月前、マサチューセツに住んでいる友人からの電話で事を知った。
 大阪・道頓堀の名物店「くいだおれ」が7月8日夜、閉店し、約60年の歴史に幕を下ろした。代々浪花っ子の血を受け継ぐ「こいさん」ではあるが、私は、この「くいだおれ」に入ったことは1回もなく、多分、両親も同じく一度として足を踏み入れたことはないだろう。地元の人間というものは、得てしてそういうものなのかも知れない。
 閉店を報じる各ニュースサイトから、ふいに興味が湧いて来て今日、生まれて初めて同店のホームページで店内を覗き見た。「ふ〜ん、中はこんな感じやったんかあ」と、勝手に描いていたイメージと随分異なっていたことにまず驚き「1回くらい行っといたらよかったなあ」とも思った。勝手に描いていた…、とは言ったが、幼い頃から数え切れないほど店の前を通ったものの、一向に入る気がしない店の1つであったことに変わりはない。昭和の記憶が確かであれば、道頓堀の「汚い、不味そう、安っぽい」という大衆食堂の代表格店であったような気がする。よって名物の人形もジロジロ見た事はなかったし「ピエロのチンドン屋」スタイルに眼鏡というアンバランスさに、子供ながらも「あほらし」とソッポを向いていた。f0055491_11444127.jpg
 同じような感情の1つに通天閣がある。生粋の「ナニワな奴」として、この先生きてゆくのにも、一度くらいは、ちゃんと上って「ビリケンさん」にも触れておこうと思ったのはニューヨークで暮らし始めてからだった。もう10年近く前になるが、こっちに住み着いてから、初めて一時帰国した時、年老いた両親と連れだって、3人で生まれて初めて通天閣に上った。もちろん両親も初体験であった。最上階の展望台からみた大阪の街はどんよりくすんで、ここでも勝手に思い描いていたイメージとは丸っきり違っていた。ビリケンさんの足の裏をさすり、塔内にある喫茶コーナーで3人3様、感慨に耽りながら黙って食べたアイスクリームの味は、未だに忘れられない。
 くいだおれ人形の吹き出しに「永いこと ありがとう おおきに」と書かれてある。この「おおきに」という言葉を、大阪ことば事典で調べてみると「大きに」の行訛(イの音がエの音に変わったもの)として【オォケニ】として出てくる。「おおけに」だと全然しっくり来ないのだが、元々は「おおけに はばかりさん」が略されたもので、略して使う場合は「に」に力を込めて発声するものらしい。もちろん意味は感謝の意で、注釈として「最小の感謝から最大の感謝まで通じるところに、大阪ことばの不思議な面白さがある」と書かれてある。「また、これでサンキュー、ノーサンキューの両方にも微妙に使い分ける」とも付け加えられている。
「おおきに」——。実にやさしいイイ響きである。この大阪弁をこよなく愛し、この言葉を自由自在に操れる自分が好きである。「おおきにぃ」という言葉を聴く度に、キー坊こと上田正樹と、オカマ風のジュンちゃんこと有山淳司の「おぉ、そこの君、おぉきにぃ〜」というフレーズが頭の中でこだまする。まるで掛け合いの漫才みたいなセリフに曲をのせたブルース。75年発売されたアルバム「ぼちぼちいこか」をすり切れるほど聴いていた頃は、まだ大阪には大衆文化がいっぱい残っていた。そういや、くいだおれの閉店に伴って、キー坊とジュンちゃんが店内でライブを行ったとネット配信で伝えられている。
 そう、私はこれが言いたかったのかも知れない「ぼちぼちいこか」——。
2008年7月11日号(vol.170)掲載
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# by sgraphics | 2008-07-11 13:15 | エッセイ

June, 27. 2008 vol.169

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vol.169/表紙「カレセン」
2008年6月27日号(vol.169)掲載
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# by sgraphics | 2008-06-27 03:33 | バックナンバー

新説「鶴の恩返し」

「鶴の恩返し」。
 この話は、昔助けたツルが恩を返すためにやって来て、自分の羽根を抜いて反物を紡ぐ——という、誰もが知っている民話である。
 この民話には「何か良いことをすると、巡り巡っていつか自分に良いことが返ってくる」ということと「約束は破ってはイケナイ」という教えが込められている。現在では「動物愛護」にまで言及するかもしれない。
 人が破ってしまった「決して覗いてはイケナイ」という約束。しかし、本当はどうなんだろう? 私には、この民話の結末は、これで良かったんだ、と思えて仕方がない。

■自虐的なツルの場合
 民話の中のツルは、人が「決して覗いてはイケナイ」という約束を破ったからと、サッサとケリをつけて飛び去る。しかし約束を破られたとして「まあ、一度くらいなら」と許してしまうツルだったら、どうなっていたんだろう。一度ならず何度も許してしまうツルの場合は……?
 人は一度でケリを付けられる人とそうでない人に分かれる。事情によって、たった一度の過ちを許さない、許せない場合も、もちろんある。
 もし、お人好しのツルがいたとして、反物を紡ぎ続けたら? いずれ羽根は無くなり、次に生えて来る日まで何とか人に隠そうと、日々怯えて生活することになる。そこまでして、何故隠す必要があるのか? 心優しいツルだから? いやいや「ずっと、良いツルだと思われていたいから」という見方もある。単なる自虐的なツルで、臆病者なのかも知れない。
 一方、元々恩返しされている方は、日々貪欲になる。
 当初「ホント申し訳ない、ありがたい」という心持ちであったものの、日が経つにつれ「おいおい、早く何とかならねーのかぁ。羽根よぉ〜」と、女工哀史さながらに反物を織らせる。人は一旦味をしめると見境が無くなる。本末転倒に気付きながらも、ツイツイ調子にのって止められなくなる。
 いづれお人好しのツルは過労死する。恩返しされていた方はというと「また新たなお人好しのツルを見つけるまでだ」と考える。ひょっとして過労死したツルをお鍋にして食するかも知れない。

 人は変わる—。この民話は、人の気持ちは豹変するものだと教えた方がいい。

■鈍感なヒトの場合
 日々、夜なべして織っているツルとの約束を頑なに守って、決して覗かない鈍感な人だったら、どうなっていたんだろう。何年経っても覗かれない場合は……?
 恩返し中のツルも、初めは「ホント喜んで貰えてよかったぁ〜」という心持ちであったものの、日が経つにつれ「ったく、いい加減気付けよ〜、覗いてくれよぉ、こんなイイ反物、羽根無しで織れるワケねえーだろう、こっちは痛いんだよっ」と愚痴が出る。
 一方、恩返しされている方は単に「へえ〜凄いね、すごいね。よかったね、ツルを助けて」を繰り返す日々。いづれツルは、悪意は無くとも鈍感な人たちには、何を持ってしても「人の痛みは通じない」ことを悟り、このままでは身ぐるみ剥がされることを予測しつつ「もう、やってらんねー」と早々にケツを捲って飛び去る。
 残された方は、いつまでも何が何だか分からないまま「またいつか傷付いたツルを助けてやればいいっか」と、あっさり前向き思考。名残惜しいとかズルズルと過去を引きずらないし嘆きもしない。そして、ツルから恩返しを受けたことはさて置き、自分がツルを助けたことを永遠に記憶して、余生、自分のいいように語り継いで「おめでたい奴」として生きてゆく。

 人は変わる—。この民話は、人の記憶は可変するのだと教えた方がいい。

 ツルは1度きりの、人の過ちをも許さず、人はたった1つの約束すら守れなかったというこの「鶴の恩返し」。早くにサヨナラしておいて、ホントに両者とも傷を深めなくて良かったな……という結果に、なってはいないか——。
 これはこれで良かったんだ、という結末ではないのか?
 人生、半世紀も生かされて暮らしていると色んな障害にぶつかる。「結局、これで良かったんだ」と思える(思わざるを得ない)ことも増える。それは、人に対しての諦めかも知れない。
 悟る——。物事の真意を知ること、それと気づくことは、何も難しいことではない。しかし、それらを会得するには、時間が必要である。その時間は人によって長短あるだろう。長くかかるからと言って後ろ指を指されることでもない。しかし時間には限りがある。人に与えられた時間は永遠ではない。

 私は自虐的なツルである。幼い頃から我慢する、耐えることに慣らされ切ってしまって、有り難いことに、その感覚にマヒしている。だからか、普通の人なら、かなりヘコむような状況下でも案外ラクに乗り越えられる。「怒味期限」が短いのである。しかし我慢した(させられた)という記憶は残っているので「恨味期限」は永い。その保存方法にもよるが、腐らせて捨てたということは未だかつてない。哀しいかな保存状態は良好だ。でも、その味には変化が起きる。苦味も時間が経てば旨味になるやも知れない。

 人は変わる—。人への気持ちも枯渇するのだと伝えたい。

2008年6月27日号(vol.169)掲載
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# by sgraphics | 2008-06-27 03:32 | エッセイ

June, 13. 2008 vol.168

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vol.168/表紙「SWIMSUITS」
2008年6月13日号(vol.168)掲載
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# by sgraphics | 2008-06-13 02:57 | バックナンバー

帰れる…きっかけ

「○年○月○日をもって、我が社はアメリカから撤退します」
 約5年前、会社がアメリカから消えて私は失業した。
「親方日の丸」的な会社にあって、それにタカを括って暢気に生活していた日々が一転する——。
 そんな経験は、大小の差こそあれ、皆そこそこ味わって、この地で暮らしているのだろう。
 元会社では永住権も取得できて、感謝こそすれ恨むことなど何もない。会社撤退後、永住権のお陰で不法就労者にもならず、ビザを失って帰国せざるを得ない状況にも陥らず、失業保険なんぞもアメリカから堂々とセシメて、路頭に迷うということもなかった。
 帰る…、帰れる…、帰られるきっかけは、この時だったのかもしれない。

 日本を離れて暮らしている誰もが、何かの折りに、ふと憶い出す。あえて避け、忘れていようと思っても心の奥底で考えている事。
 帰国——。
 そう、いつかは日本に帰らなければ…という思いに苛まれながら暮らしている。その「きっかけ」を探しながら…、否、逆に、胸の内を隠しながらズルズルと思い留まっている。
 かれこれ日本を離れて15年という年月が過ぎた。長くもあり短くもある。
 自らの強い決断が出来ず、外因から「きっかけ」を得ようとする。
 ○○のために仕方なく帰る、というエクスキューズがなければ、素直に帰れられない状況にある。
 誰のために何のための言い訳か?自問自答する。
 自分が気にするほど、世間は誰も「そんな些細な事」など気にしてくれはしない。自分の思いあがり、独りよがりもいいところだ。
 親が倒れたという要因で決断して帰る人が多い中、幸いにも、高齢ながら両親ともに健康でいてくれている。ありがたい、と本心で思う。
 何か外因はないだろうか…、と模索しながら日々を送っていると、有り難いか否かは別にして、突然、その知らせはやってくる。会社が忽然と無くなった時と同じだ。

「○年○月○日の契約切れをもって、退出をお願いします」

 もう10年以上お世話になっているコンドミニアムのオーナーから、一通の手紙が届いた。
 サブプライムローンの影響かどうかは分からないが、ローンが嵩むため物件を手放したいという意向だ。「長い間どうもありがとうございました」の一文で締めくくられた手紙を読み終えた時は、市内での引っ越しを真っ先に考えた。その数分後、頭の中は「帰国」の2文字でいっぱいになった。
 失業後も何とか続けて贅沢な暮らしができたのも、このオーナーのお陰である。
 ミッドタウンの高層高級コンドミニアム。内情がどうであれ、幸運にも他人からみて羨まれるような生活をずっと続けられていた。ドアマン、コンシアージは当たり前。プールにサウナ、ジムまである。毎日仕事に出ていた頃はともかく、失業後、家に四六時中居る今でさえプールやジム、サウナを利用することは皆無だ。多分、これらのサービスを利用した回数は10年で5回未満だろう。それも友人が泊まりに来ていて「利用したい」というリクエストに応えるためのものがほとんどだ。
 勿体ない、と人は言う。日本円にして毎月20万もの家賃を支払っているのだから、当然、利用できるモノは利用して、少しでも元を取れ、ということだ。人によって「価値観」は当然異なるが、私はプールやジム、サウナを利用せずとも、十分、今の暮らしに満足し、感謝している。
 価値観——。
 ニューヨークで暮らして感じたことの一つに「自分さえ良ければ精神」がある。
 この考えを貫く日本人は多い。というか、私の周りにそういった人たちが集まってくるのかも知れない。
 世のため、人のためとは言わないが、人を押しのけ、人を利用してまで、自分を守ろう(正当)とする卑劣な行為を、どれほど味わされてきただろう。恩義を感じてくれなくてもいい、苦しい時はお互い様だと思う。しかし、それを仇で返されるという苦い思いも、何度も繰り返し経験した。
 情けなくて言葉も出ないことも多い。価値観ってなんだろう?「価値観が違うから…」という言葉で一蹴される世の中に、私が、そぐわないのだろう。
 
 いくらレント代が支払えると言ってもフリーランス業において、どこか新しく部屋を借りることなど到底ムリな話である。どんな会社であれ、規模の大小に関わらず会社と名乗る某との雇用契約書は不動産契約において避けて通れない。ことマンハッタンに居続けたければルームシェアを見つけるか、サブレントでその場しのぎを繰り返す以外に道はない。
 ましてや失業後、ささやかな貯金も済し崩しでドンドン消えていった。よって常套手段ともされている1年分を一括で支払って「金にモノを言わす」手口なども使えない。まともにデポジットできる見せ金や、年間家賃の15%を支払うブローカーフィすら払う余裕も、もうない。
 同じ20万円の家賃を払うなら、日本の方が良い物件が見つかるハズ…、いっそ若い頃から念願だったハワイにでも移ろうか…、と考えが日々変化する。
 どの州であれアメリカ内に留まって引っ越しするも、帰国するのも、一旦、荷物を片付けて括るという手間は同じだ。他国に移るにはビザなどの問題もあるが、その考えもまた広がる…。
 毎日ネットで世界中の物件を、見るとは無しにボーっと眺めているが、未だ着地する確かな場所が見つからない。

 帰る…、帰れる…、帰られるきっかけは、今かもしれない。

2008年6月13日号(vol.168)掲載
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# by sgraphics | 2008-06-13 01:42 | エッセイ

May, 30. 2008 vol.167

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vol.167/表紙「香るオトコ」
2008年5月30日号(vol.167)掲載
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# by sgraphics | 2008-05-30 06:57 | バックナンバー

無念の相違

 1995年1月17日(火)——。生まれも育ちも生粋の浪速っ子。でも少しの期間だけ、兵庫県民にもなったことがある私は、阪神大震災を知らない。
 当時、地震が起こった時刻は五番街のオフィスでいつも通り仕事をしていた。「○○さん、実家にすぐ電話!」と上司が気遣ってくれた。電話はすぐに繋がった。両親は私の連絡の早さに驚いていた。その後暫く、日本への電話は不通となった。新聞社に勤めていて良かったと思えたことの1つだ。震災を知った初めは、他人事のようで、災害もそれほどでもないようにも思えた。時が経つにつれ状況も明確となり、ことの深刻さ重大さに驚かされた。私より10歳は若かっただろう元同僚が亡くなったことをも含めて——。

 現在、中国・四川大地震の死者は約7万人、負傷者は36万人以上に上っている。
 道路が寸断されて生き埋めになっている人たちは、四川省だけでもまだ2万人以上いるという。生存率が著しく低下するまでのタイムリミットは「72時間」。日本の国際緊急援助隊は地震発生から84時間後に到着した。同援助隊が活動を開始したのは96時間後で、地震発生から丸4日経過していたという。
 この日本の国際緊急援助隊「Japan Disaster Relief Team=JDR」は、87年「国際緊急援助隊の派遣に関する法律」の施行によって医療チーム(医師216人、看護師363人、薬剤師40人、レントゲン撮影、受付などを行う医療調整員181人=登録者数合計800人)、救助チーム(都道府県警察の機動隊約440人、自治体消防本部の救助隊600人、海上保安庁特殊救難隊員など約600人=登録者数合計約1640人)、専門家チーム(関係省庁や地方自治体から推薦された技術者や研究者など=登録者数不明)から組織され、92年のPKO法の改正に併せて自衛隊チームも加わった。この援助隊第一陣の救助チームが20日、「生存者救出につながらなかった『無念さ』をにじませて帰国」というインターネット配信の動画ニュースを見て、ふと気になったことがある。

 今回、四川大地震救助チームの第一陣は、外務省国際協力局国際緊急援助室長・小泉崇を団長に、JICA国際協力人材部・藤谷浩至調査役をはじめ、警察庁、海上保安庁、消防庁からの副団長および各組織の団員により構成された総勢60人が中国入り。うち直接現場に出向いたのは約半数の31人だったようだ。
 タイムリミットの「72時間」が被害を大きく左右することを、日本は阪神大震災で学んでいる。「一刻も早く救援に駆けつけたい」。多分、隊員たちは皆そう願っていただろうし、ビルの崩壊など都市での救助活動を得意とする日本の救助チームにとって、レンガ造りや石積み壁の家屋で、尚かつ山間部の土砂に埋もれた四川の現場は相当困難を極めたに違いない。明確な地図もなく生存者情報も錯綜する中、不眠状態のまま救助に徹した隊員31人は、もちろん称賛されるべき行為だった……と思う。と言うより、人として「ご苦労様でした。現場はさぞかし大変だったでしょう。本当にお疲れ様でした」と心底、そう思わなければいけないのかも知れない。結果的に生存者の救出には至らず、力を発揮しきれなかったことに肩を落とす日本人も多いが、一方、中国のインターネット上では日本の隊員たちの活動に深く感謝し、称えるコメント一色となって、新聞やテレビなどのメディアでも日本隊員の活躍を大きく扱ったという。美談。もちろん、そうなるであろうことも充分予想された結果だ。
 しかし、事態は暗転した——。
 とは言え、私の胸中でのことである。

「中国・四川大地震 被災地での活動終えた日本の国際緊急援助隊、『無念さ』をにじませ撤収」と題されたインターネット配信の動画ニュースを、日常の一環で淡々と見ていた——19日夜、現場から撤収した日本の救助隊は成都市内のホテルに滞在中で、隊員たちは部屋に籠っていて不眠の救助活動の疲れは相当のものだったことが予想される——とニュースは伝えていた。現場での様子が映し出されていた画面は直後、1人の隊員に変わった。その隊員は悲痛な面持ちで、短くこう語った。「正直、自分個人は『悔しいな』と思います。助けてあげられなかった」と目を伏せた。
 同隊員の所属が機動隊なのか消防救助隊か、それとも自衛隊なのかは分からない。顔から判断するに少し年配に見受けられ、マスコミからの質問に応える任務を与えられた人物であることからも、ペイペイというワケでもなさそうだった。見た目は40代半ばという感じだ。

「正直、自分個人は『悔しいな』と思います。助けてあげられなかった」
 なぜ、こんな傲ったモノ云いが罷り通り、編集もされずタレ流しになるのだろう。
 一体、いつから日本人は、こんな傲慢になったんだろう。
「自分個人は」と、何でも勘でも、まずは自分自分。
「悔しいな」とコメントを吐く自分より、はるかに悔しがり涙しながらも隊員に感謝している人々がいることに、気付けないでいる隊員が、大画面で映し出され美談の人となっている。
 彼だけではない。そういう人は画面の内外に、当たり前に鎮座しているのだろう。

「助けて、あ・げ・ら・れ・なかった——」

「助けられなかった」とは言わない。いや、もう言えない域にまで日本は達している。
 その違いにすら全く気付かない日本人が台頭している今の世の中。
 この「あげられなかった」という一言に、何の違和感も憶えないままメディアを通じて、あらゆる手段で伝えられていることそのものが、私には「無念な3分」だった。しかし、この一言に違和感を憶える私の方が「(心が)狭く、穿った見方をする嫌なヤツ」と、普通に嫌がられる域にまで既に達しているような気がする——。
「正直、自分個人は『悔しいな』と思います。(今の日本人に謙虚さを)教えてあげられなかった——」
 傲慢になることは、いとも簡単である。
2008年5月30日号(vol.167)掲載
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# by sgraphics | 2008-05-30 05:50 | エッセイ

May, 16. 2008 vol.166

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vol.166/表紙「2008 international year of the potato」
2008年5月16日号(vol.166)掲載
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# by sgraphics | 2008-05-16 03:43 | バックナンバー

クバナの歩き方(37ー最終回)

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 朝からのTVのニュースでは台風がいよいよクバナ中部に上陸し、空の便にも幾分影響が出ているようだ。しかし、ここハバナは今日も晴れ渡ったいいお天気で、地元の人々もいつもと何ら変わりなく朝からセッセと働いている。ゆっくり朝食を摂りチェックアウトも無事に済ませて早々と空港に向かおうとロビーを出たら、日本人らしき1人の男性に呼び止められた。お決まりの「地球の歩き方」を片手にたどたどしい英語でオススメの観光名所を教えて欲しい旨を伝えて来た。多分、彼は我々が日本人であってくれることを祈りながら怖々声をかけてきた様子。ちゃんとした日本語でオススメ名所を伝えると、やや安堵した表情で軽く礼を言って街へと繰り出して行った。歳は35、36才といったところか?金縁眼鏡に白いポロシャツをキチンと着こなす至ってマジメな日本人男性だった。バックパッカーや学生にも見えず、かといって会社員ましてや駐在員といった感じでもなく、ましてや共産主義に傾倒している革命輩風でもない。多分、ハワイに行くのと同じ感覚でクバナまでやって来たボンボンの1人旅っていうのが正解だろう。f0077769_212825.jpg
 タクシーで約20分ほどでホセ・マルティ国際空港に到着。台風にそれほど影響がないのか案外空港内はガランとしている。チェックイン手続きのためカウンターに近付くといきなり制止され、まず先に全ての荷物類の検査を受けるよう注意された。後方にある荷物検査機はメキシコで見た「ラップで何重にもグルグル巻き状態」になるシロモノではなく、バゲージを一瞬にして「真空パック状態」のようにする装置だった。へえ〜、と感心する間もなくサッサと促されてカウンターへ。まずは窓口で空港使用(出国)税を払ってレシートを受け取ってから出国審査を受け、そのままスムーズにゲートに向かうよう言われた。少し緊張。空港使用税の支払いはキューバペソ(Cuc25)のみ。
 私が手続きしている間、またしても連れは、最後の追い込みとばかりお土産モノを物色中。Tシャツに帽子と、まるで何かに憑かれた様に買い漁っている。テメエはオバハンかっ!と思いながらも買い物に付き合う。未練タラタラな奴を引っ張って出国審査のブースへ。ブースと言っても安易なパテーションで区切られた一角。当然乍らスタンプはない。この国に入った証はパスポートに何1つ残らなかった。ゲートに向かう途中、一応、免税店らしき店が1軒だけあった。どうやらブランド物も取り扱っているみたいだが、日本人が欲しがる高級ブランド品はなさそうだ。免税店を横目に通り過ぎると、またしても地元のお土産屋がホールで商品を広げている。チラッと連れを振り返ったら、既に目の色を変えてまたもや物色中。やれやれと思い乍らも、私も残り少なくなった最後のペソを使い果たそうとゲバラ風の帽子を買おうか思案中……。連れは某かの紙幣をまだ持っていたらしく両替ブースで米ドルにチェンジ中……どうやらオバハン衝動は終わった様子。私はそれほどペソが残っている訳でもないので帽子を買おうと決めて、財布の中をコソコソ計算していたら、急に横から連れが「え〜、ボクもソレ欲し〜い!」と相成り候。ゴリ押しされて2つ買うハメに。奴にあの帽子を貰った人に言っておきたい。あのチェ・ゲバラ風の★が付いた布製キャップは、他のモノを買うことを諦め、両替することを止めてまで私が買わされた逸品ですから……。残りわずかなコインで地元のスナック袋菓子を2つ買いゲートに並ぶ。
 午後12時55分発、カンクン行き、クバーナエア152便は、来る時に乗った超アンティークな飛行機とはうって変わって、真新しい大型ジャンボ旅客機だった。機体はメキシコに向けて、ほぼ定刻通り、雲一つない青空へと飛び立った——。(完)

*「クバナの歩き方(1)」はこちらからどうぞ!
*料金表示はすべて1人あたりの金額です。
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メモ:クバナ旅行の合計金額=$1673.89
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CUBA AIR =$322.00/カンクン〜ハバナ(往復)
US AIRWAYS =$354.89/ラガーディア〜カンクン(往復)
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Telegrafo =$172.00(1人分/3泊/旧ハバナ宿泊)
Melia Varadero=$230.00(1人分/2泊/バラデロビーチ宿泊)
Melia Cohiba =$95.00 (1人分/1泊/新ハバナ宿泊)
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キューバでの遊興資金=$500.00(445ペソ)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2008年5月16日号(vol.166)掲載
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# by sgraphics | 2008-05-16 02:02 | キューバの歩き方/2006

April, 25. 2008 vol.165

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vol.165/表紙「Tibet will be free」
2008年4月25日号(vol.165)掲載
*表紙記事の内容は こちらでご覧になれます*
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# by SGraphics | 2008-04-24 11:13 | バックナンバー